ロシアの「核の脅し」は現実か演出か:恐怖が政策を縛るメカニズムと本当のリスク

はじめに
ロシアが劣勢に見える局面ほど、西側では「プーチン大統領が核を使ったらどうなるのか」という問いが繰り返されます。核の恐怖は、軍事だけでなく政治判断そのものを遅らせる力を持ちます。一方で、核使用は「一人が赤いボタンを押せば終わり」という単純な構図ではありません。本稿では、核の“真の危険”と、恐怖を利用した“戦術としての脅し”を分けて整理します。
背景と概要
核兵器をめぐる議論が感情に引っ張られやすいのは、冷戦期の社会経験が強く残っているためです。米国では学校教育を通じて「Duck and Cover(身をかがめて隠れる)」のような民間防衛コンテンツが広まり、英国でも核攻撃を想定した「Protect and Survive」キャンペーンが準備されました。こうした「核はいつ来るかわからない」という刷り込みは、意思決定層の世代体験としても残りやすいと指摘されます。
ロシア側もまた、核を「兵器」だけでなく「影響力の道具」として扱ってきました。2014年のクリミアをめぐる緊張期には、国営テレビの著名司会者が核を想起させる威嚇発言を行い、国内向けの誇示と国外向けの抑止を同時に狙う構図が見えました。
ウクライナ侵攻(2022年2月)以降、ロシアの核言及は、西側の支援の“上限”や“速度”に作用し得る心理的圧力として繰り返し注目されてきました。2024年には、ロシアが戦術核を想定した演習を告知したり、同年11月には核使用原則(核抑止の基本原則)を更新したと報じられるなど、核をめぐるシグナルは制度面にも接続されています。
現在の状況
西側の政策判断は、核の脅しと「エスカレーション管理」の言葉に影響を受けやすい構造があります。例えば米国は、2024年5月末にハルキウ周辺の防衛目的に限り、国境近くのロシア側目標への反撃に米供与兵器の使用を一部容認した一方、当時は長射程ミサイル(ATACMS)によるロシア領深部攻撃を引き続き制限していました。
その後、2024年11月には米国が「ロシア領深部への攻撃」を含む形で運用制限を緩和したと報じられ、段階的に“赤線”が動いてきたことが示されました。ロシアはこうした節目に合わせて「危険なエスカレーション」を訴え、核を含む抑止の言語で揺さぶりをかける傾向があります。
欧州でも同様に、ドイツの長距離巡航ミサイル「タウルス」をめぐって、慎重論(当事国化・直接衝突への懸念)が繰り返し争点化してきました。議会投票や首相発言を通じて、ロシアとの直接対立を避けたい論理が政策制約として働いていることが読み取れます。
注目されるポイント
1) 「赤いボタン」神話を外すと、現実の姿が見える
核使用は個人の衝動だけで完結しません。ロシアの核指揮統制には、いわゆる「核ブリーフケース(Cheget)」があるとされますが、要点はスーツケースの存在ではなく、命令伝達・確認・実行の連鎖が官僚的なシステムとして組まれている点です。大統領だけでなく国防相や参謀総長も同種の端末を持つとみられる、という分析もあります。
2) 真に怖いのは「狂気」よりも、誤算・誤認・時間圧力
核リスクの現実味は、意図的使用だけでなく“誤報”や“誤認”が絡む局面で高まります。1983年のソ連早期警戒システム誤報(ペトロフ事件)や、1995年のノルウェー観測ロケットをめぐる警戒事案は、「システムが完璧ではない」ことと「人間判断が結果を左右する」ことを示す代表例として語られます。
3) “脅し”は撃たなくても効くという政治技術
核の示唆は、実際に発射しなくても、相手の意思決定を遅らせたり選択肢を狭めたりできます。ロシアが戦術核演習を告知した2024年5月のように、軍事行動と政治メッセージを組み合わせ、相手の「自己抑制」を引き出す設計が見えます。
4) ロシアの制度面の動き(ドクトリン更新)も「抑止の演出」と結びつく
2024年11月にロシアが核使用原則を更新したとされる点は、核使用の閾値(どんな場合に核を考慮するか)をめぐる不確実性を意図的に増やす効果を持ち得ます。欧州議会図書館や軍備管理系メディアは、更新が「より広い状況で核を想定する」方向に読めることを解説しています。
5) それでも「実際に使う動機」は弱い可能性がある
核使用は、命令を出す側だけでなく、実行に関わる複数の当事者が“報復を前提にした意思決定”を迫られる行為です。このため、政治エリートが私的資産や生活圏を重視しているほど、全面破局につながる決断を回避する誘因が強まる、という見立てもあります。制裁下で露呈した資産構造(豪奢な不動産やヨットなど)をめぐる報道は、その一端を示します。
加えて、運搬手段や装備の信頼性も「絶対無謬の核イメージ」とは別問題です。2024年9月には、RS-28サルマト(ICBM)の試験失敗を示唆する衛星画像と専門家分析が報じられ、ロシア側の沈黙も含めて注目されました。
さらに、世論面でも核使用を積極的に支持する層が限定的である可能性が示されています。レバダ・センターの2025年6月調査では、「核使用は正当化され得る」が24%、「正当化できない」が65%とされています(個別面接・標本1604人)。
今後の見通し
今後もロシアの核言及は「抑止」と「威圧」の両面で続く公算が大きい一方、実際の使用確率は、意図的判断よりも誤算・誤認・偶発要因の管理に左右される可能性があります。したがって各国は、核の脅しを過度に“天気予報化”して政策を硬直させるのではなく、危機管理(連絡回線、誤認防止、段階的抑止、シグナルの読み違い回避)を重視しつつ、支援や抑止の設計を詰めていく必要があります。
同時に、核をめぐる制度更新や軍事演習は「相手の判断を縛る」こと自体が目的になり得ます。西側が恐怖に反応して支援の速度や範囲を一律に抑えるだけでは、むしろ威嚇の有効性を強める結果にもなりかねません。核リスクを直視しつつ、何が“実害のある危険”で、何が“政治的な圧力装置”なのかを切り分けて扱う姿勢が、今後の政策運用の鍵になります。
