アルメニアとアゼルバイジャンは本当に和平へ向かうのか?残された争点を整理する

はじめに
アルメニアとアゼルバイジャンは、いま確かに和平へ向かっています。2025年3月には和平協定の条文で合意し、同年8月には米国仲介のもとで協定本文が初期署名され、公表まで進みました。もっとも、2026年4月時点でも完全な平和が制度として定着したとは言い切れず、正式署名、批准、国境管理、輸送路、安全保障、国内政治といった難所が残っています。
背景と概要
両国の対立は、旧ソ連末期にナゴルノ・カラバフをめぐって始まりました。アゼルバイジャン領内にありながら住民の多数がアルメニア系だったこの地域をめぐって、両国は1990年代以降、複数回の戦争と停戦を繰り返してきました。2020年の戦争でアゼルバイジャンが大きく優位に立ち、2023年9月にはカラバフを完全に再掌握し、約10万人のアルメニア系住民がアルメニアへ流出しました。これによって、かつての「地位問題」を中心とする交渉の枠組みは事実上崩れ、争点は国家間の国境、主権、輸送、法的整理へと移りました。
その後の和平プロセスは、2025年3月の条文合意で大きく前進しました。Reutersによれば、両国はこの時点で和平協定の文面を最終化したと発表し、アルメニア側は署名の用意があると表明しました。さらに2025年8月には、米国仲介のもとで協定本文が初期署名され、両国は相互の領土保全、主権、国境の不可侵を尊重し、将来の領土請求を行わず、武力行使を控えることを確認しました。和平は、可能性ではなく、すでに文書化された工程に入っているのです。
ただし、ここで重要なのは、条文合意と完全な平和は同じではないという点です。アルメニア外務省が公表した本文では、この協定は両国が国内手続きの完了を通知し合って初めて発効するとされており、Reutersも2026年1月時点で「和平合意はまだ署名されていない」と報じています。したがって現在の局面は、「和平に向かっているかどうか」を問う段階というより、「どこが最後まで詰まり続けるのか」を見極める段階に移っているとみるべきです。
現在の状況
現在の到達点を整理すると、和平プロセスは三つの層に分かれています。第一に、原則論の層では、両国は互いの領土保全を認め、対立を国家間のルールに落とし込む方向で一致しました。第二に、実務の層では、国境画定と画標設置を進めるための共同規則が2024年11月に発効し、両国の境界委員会が制度的に動いています。第三に、政治の層では、正式署名と批准に向けた最後の条件調整が残っており、そこに憲法改正や国内世論が重くのしかかっています。
表面上は前進している一方で、現地の空気はなお不安定です。2025年春から夏にかけては停戦違反の応酬が増え、Reutersは、条文合意後にむしろ国境での発砲報告が増えた時期があったと伝えました。大規模戦争がすぐ再開する状況ではないにせよ、平和がすでに不可逆になったとまでは言えません。和平プロセスは前へ進んでいるが、力の非対称と相互不信が残るため、圧力と交渉が同時進行しているのが実情です。
注目されるポイント
憲法改正は、もっとも大きな政治的争点です
最大の障害は、アルメニア憲法をめぐる問題です。アゼルバイジャンは、アルメニア憲法がナゴルノ・カラバフに関する過去の立場を間接的に残しており、自国領への潜在的な請求を含んでいると主張しています。これに対してアルメニアは、現在の国家政策として領土請求はしていないと説明していますが、パシニャン首相自身は近年、憲法を新たに作り直す必要性に言及してきました。とはいえ、国民投票の日程は定まっておらず、法的な修正が政治的な火種になっています。
この問題が重いのは、外交交渉ではなく内政問題になっているからです。憲法改正は、アルメニア国内では敗戦の固定化、あるいは対アゼルバイジャン譲歩の象徴として受け取られやすく、反対派にとっては格好の攻撃材料になります。2026年6月7日に議会選挙を控えるなかで、政権が和平を進めるほど国内対立が先鋭化する構図が生まれています。
国境画定は進んでいるが、平和を保証する段階には至っていません
両国はすでに、国境画定作業を進めるための制度を整えています。2024年11月には、国境画定と安全確保に関する両国委員会の共同活動規則が発効し、どの区間から順に作業を進めるかの協議も続いています。これは重要な前進ですが、境界線が全て確定したわけではありません。国境が未画定のまま残る限り、小規模な発砲や部隊の前進がいつでも政治問題化し得ます。
しかも、和平協定そのものも、国境画定の完了を待たずに進む設計です。公表本文では、境界委員会が別途善意で交渉を続けることが定められており、つまり「和平文書はあるが、現場はまだ動く」という状態がしばらく続く可能性があります。署名そのものより、署名後に国境でどれだけ実務的な安定を作れるかが、平和の定着を左右します。
輸送路の問題は、経済協力の象徴であると同時に主権の争点です
南アルメニアのシュニク地方を通る輸送路は、和平の利益を可視化する案件である一方、もっとも敏感な争点でもあります。アゼルバイジャンは本土と飛び地ナヒチェヴァンを結ぶ通路を強く求めてきましたが、アルメニアにとっては、その通路が自国の主権を損なわないかが決定的に重要です。Reutersによれば、米国仲介の後続枠組みでは、米企業が開発権を持つ一方、国境管理、税関、安全保障などの主権はアルメニアが保持する設計が示されています。
しかし、地図の上での回廊は、現地では生存の問題です。Reutersは2025年6月、シュニクがイランへの生命線であり、ここでの通路設計はアルメニアにとって対外接続そのものに関わると報じました。和平が進むほど輸送は前向きな象徴になりますが、同時に「回廊」が主権の空洞化に見えれば、国内の反発は一気に強まります。経済合理性だけでは片づかない典型的な争点です。
第三国部隊・監視団の扱いが、安全保障の空白をどう埋めるかという問題を生みます
2025年3月時点でReutersは、和平合意後には国境沿いに第三国部隊を展開しないという条項があると伝えました。実際、公表本文でも、相互国境に第三者の軍を配置しないことが明記されています。これはロシアの軍事的役割を減らす意味を持つ一方で、現場の安心材料も減らしかねません。
この点で焦点になるのがEU監視団です。EU理事会は2025年1月、アルメニアに展開するEUMAの任務を2027年2月19日まで延長しました。EUMAは非武装の民生ミッションとして国境地帯の監視と信頼醸成を担っていますが、アゼルバイジャンはこの存在を快く見ていません。和平が前進するほど、外部監視を残すのか、それとも二国間だけで安定を維持するのかという新しい問題が前面に出てきます。
国内政治は、和平の速度を決める最後の要因です
和平が本当に前へ進むかを左右するのは、最終的にはアルメニア国内の政治です。2026年4月には、議会選挙を前に親ロシア系野党に関係する14人が選挙買収容疑で拘束されました。与党と反対派の対立が強まるなかで、和平路線は単なる外交政策ではなく、国家の方向をめぐる争点になっています。
しかも、アルメニアでは敗戦後の不満、ロシア離れへの警戒、対アゼルバイジャン譲歩への反発が重なっています。政権が信任を得れば和平の実施は進みやすくなりますが、逆に選挙後に政治的な揺り戻しが起きれば、条文があっても運用が止まる可能性があります。いまの和平は、二国間外交だけでなく、アルメニアの内政再編と一体で進んでいます。
法的な後処理も、まだ終わっていません
公表された和平本文では、発効後1カ月以内に、両国が相互に抱えている国家間の法的請求や異議申立てを取り下げること、そして新たな敵対的行動を外交・情報空間でも行わないことが定められています。さらに、実施監督のための二国間委員会を設け、解釈をめぐる紛争はまず直接協議で処理することも盛り込まれました。これは前進ですが、裏を返せば、法的対立の整理と履行監視はこれから本格化するということでもあります。
今後の見通し
結論として、アルメニアとアゼルバイジャンは本当に和平へ向かっています。2023年までの段階では「戦争の次に何が来るか」が不透明でしたが、2025年以降は、和平の原則、文面、実施の枠組みが少なくとも部分的には整いました。両国が互いの領土保全を認め、法的な国家間関係を結ぶ方向で動いていること自体は、もはや後戻りしにくい大きな変化です。
ただし、それは「平和が完成した」という意味ではありません。憲法改正、正式署名と批准、国境画定、輸送路の設計、第三者監視の扱い、国内世論の承認という複数の難所が残っています。したがって現時点を最も正確に表すなら、両国は和平に向かっているが、その平和はまだ政治的に脆く、制度的にも未完成だ、ということになります。いま問われているのは、合意の有無ではなく、合意を社会と国家の現実に落とし込めるかどうかです。
