本州初のトキ放鳥が能登で実現、羽咋市から始まる「人とトキが暮らす里山」の再生

はじめに
2026年5月31日、石川県羽咋市で国の特別天然記念物トキの放鳥が行われました。新潟県佐渡島以外でトキが放鳥されるのは初めてで、本州における野生復帰の新しい段階が始まったことになります。放鳥式では8羽が空へ飛び立ち、残る10羽も周囲の環境に慣らした後、自らのタイミングで飛び立つ「ソフトリリース方式」によって放鳥される予定です。能登の空をトキが舞うのは、およそ56年ぶりです。
今回の出来事は、希少な鳥を自然に戻すというだけの話ではありません。トキが暮らせる環境を取り戻すには、水田、水路、農薬の使い方、地域住民の協力、観光との距離感まで含めた長期的な調整が必要です。能登での放鳥は、生物多様性の回復、農業の再設計、地域振興、そして震災後の復興を結びつける試みとして見るべきです。
背景と概要
トキは、かつて日本各地に広く生息していました。環境省によれば、江戸時代末期から明治初期にかけては北海道から九州まで広い範囲で見られましたが、乱獲や生息環境の変化などによって急速に個体数を減らしました。本州では石川県能登地方が最後の生息地の一つとなり、新潟県佐渡島とともに保護活動が続けられました。
日本の野生下のトキは1981年に一度姿を消しました。その後、中国から提供されたトキを基礎に飼育下繁殖が進められ、2008年には佐渡島で最初の放鳥が行われました。佐渡では、餌場となる田んぼやビオトープの整備、農家や自治体との連携、観察ルールの周知などが積み重ねられ、野生復帰は着実に進みました。環境省は、佐渡での成果を踏まえ、次の段階として佐渡以外にも複数の地域個体群を形成する方針を打ち出しています。
その最初の場所に選ばれたのが、石川県能登地域です。能登は本州最後のトキ生息地として歴史的なつながりがあり、県内ではいしかわ動物園を中心に分散飼育にも取り組んできました。2022年8月には、能登地域がトキの野生復帰を目指す地域として選定され、2025年には羽咋市南潟地区周辺が放鳥場所として決まりました。
現在の状況
今回の放鳥に向けて、佐渡トキ保護センター野生復帰ステーションでは、2026年3月から放鳥候補個体の順化訓練が行われました。訓練では、飛翔能力、採餌能力、群れの中で生活するための社会性などを確認します。足環やGPS型の追跡装置も装着され、放鳥後の移動や定着状況を把握できるようにしています。
当初は20羽が訓練対象でしたが、健康状態を考慮して一部の個体が対象から外れ、最終的な放鳥予定数は18羽となりました。内訳は、5月31日の式典で放鳥箱から直接飛び立った8羽と、現地の仮設ケージで約2週間過ごした後に放鳥される10羽です。
この二つの方法には、それぞれ異なる狙いがあります。放鳥箱から直接飛び立たせる「ハードリリース方式」は、個体の分布拡大を促す方法です。一方、仮設ケージで現地環境に慣らしてから自発的に飛び立たせる「ソフトリリース方式」は、放鳥地の周辺に定着しやすくするために使われます。佐渡でも両方式が使われてきました。
能登地域では、2026年9月ごろにも2回目の放鳥が予定されています。場所は中能登町春木地区周辺で、5羽から10羽程度の放鳥が想定されています。つまり、今回の羽咋市での放鳥は一度限りの記念行事ではなく、能登に新たな個体群をつくる中長期的なプロジェクトの第一歩です。
注目されるポイント
トキを放すだけでは、野生復帰にはなりません
最も重要なのは、放鳥と定着は別の問題だということです。トキが自然の中で生き続けるには、一年を通して餌を確保できる環境が必要です。トキはドジョウ、ミミズ、昆虫類などを食べるため、水田や湿地、水路の状態が生存を左右します。
羽咋市では、田んぼの脇に「江(え)」と呼ばれる水路を設け、水を抜く時期にもドジョウなどが逃げ込める場所を確保する取り組みが進んでいます。石川県は、化学肥料や化学合成農薬の削減、ネオニコチノイド系農薬の不使用、餌場づくりなどを条件にした「トキめく能登の未来」米づくり認証制度も創設しました。トキの保全を農業の負担としてだけではなく、農産物の価値向上につなげようとしています。
能登は「本州最後の生息地」から「本州最初の再生地」へ変わろうとしています
能登が放鳥地に選ばれた意味は、歴史的に大きいです。石川県では江戸時代初期からトキの生息記録があり、能登半島では1961年まで繁殖が確認されていました。本州で最後までトキが残った地域が、本州で最初に野生復帰へ踏み出す地域になったことになります。
この意味で、今回の放鳥は単なる「佐渡モデルの横展開」ではありません。佐渡で培われた知見を引き継ぎつつ、能登独自の農業、里山、地域社会のあり方に合わせて、新しい共生モデルを作る試みです。
トキは震災後の能登復興とも結びついています
2024年1月の能登半島地震と、その後の豪雨災害によって、能登では生活基盤や生業の再建が続いています。石川県は、トキをシンボルとした地域活性化を創造的復興の取り組みの一つに位置づけています。放鳥を契機に、環境配慮型農業、認証米のブランド化、観光、教育、地域交流を組み合わせ、復興後の地域像を描こうとしています。
ただし、トキを復興の象徴として扱う際には慎重さも必要です。観光客が過度に接近したり、撮影目的で追い回したりすれば、定着を妨げるおそれがあります。佐渡でも、トキとの距離を保ち、行動や生態に影響を与えない観察ルールの周知が続けられてきました。能登でも、地域振興と保全の両立が課題になります。
成功の基準は「飛び立ったか」ではなく「暮らし続けられるか」です
放鳥式で空へ舞う姿は象徴的ですが、野生復帰の成否は、その後の数年で判断されます。トキが能登に定着し、餌を確保し、群れを形成し、将来的に繁殖へ進めるかが重要です。
石川県は、放鳥後の分布把握と今後の野生復帰に活用するため、住民から目撃情報を集める入力フォームも整備しています。GPSによる追跡に加えて、地域住民が観察に関わる仕組みを作ることで、保全活動を地域の日常へ組み込もうとしています。
今後の見通し
今後の焦点は、まず18羽が能登の環境にどのように適応するかです。5月31日に飛び立った8羽に続き、残る10羽も仮設ケージで約2週間過ごした後、自ら飛び立つ予定です。その後は、GPSや目撃情報を通じて、移動範囲、採餌場所、群れの形成、周辺地域への分散状況が確認されます。
次に問われるのは、農地環境を長く維持できるかです。トキの生息環境を守るには、農薬や化学肥料の削減だけでなく、水路の管理、休耕田の扱い、農業者の負担、農産物価格、担い手不足まで考える必要があります。トキが暮らせる里山を維持できるかどうかは、地域農業を持続させられるかどうかとほぼ同じ問題です。
さらに、能登での成果は他地域にも影響します。環境省は2027年度上半期を目途に、島根県出雲市でも放鳥を行う方針です。佐渡だけに依存しない複数の地域個体群を形成できれば、感染症、災害、生息環境の変化に対するリスク分散にもつながります。
結論として、2026年5月31日の放鳥は、トキが本州に戻ったという記念日であると同時に、長い検証期間の始まりでもあります。8羽が空へ飛び立った瞬間は重要ですが、本当の成功は、数年後にも能登の田んぼでトキが餌を探し、地域の暮らしの中に自然に溶け込んでいることです。トキの野生復帰は、鳥を守るだけの政策ではありません。人の営みと自然環境を、地域の未来に合わせて組み直す試みなのです。

